大日本生産党
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内田 良平
 
黒龍会主幹 大日本生産党初代総裁
明治7(1874)年2月11日 〜 昭和12(1937)年7月26日
福岡県福岡市出身
 
 
 
 
明治七年二月十一日、内田良五郎の三男として福岡市大円寺町に生る。つとに厳格なる士道教育を受け、各般の武道に秀づ。十七歳の時、早くも大陸経営に着眼して支那(中国)に渡る。二十一歳の時、朝鮮に入り、天佑侠を組織し東学党を助けて日清戦争の端緒を作り、その後三国干渉に憤激して三十年(二十四歳)シベリアを横断して露都(現サンクトペテルブルグ)に至り実地に露国(ロシア)事情を探り露国が革とうそ命の危機を孕みつつあるを看取し、帰国後同憂の士と共に黒龍会・日露協会を創立、「露西亜亡国論」を著はし、ロシアの決して怖るるに足らざることを強調し、また露語学校を興して露国膺懲の主戦論を唱え、満洲問題の基根を培へり。其後かねて気脈を通じゐたる孫文、宋教仁、黄興等を助けて支那革命の達成に尽力し、革命政府成るや、其の外交顧問を嘱せられ、又ヒリツピン(フィリピン)の独立運動をも支援す。
三十八年十二月韓国統監府を設置さるや、伊藤(博文)統監の招聘により幕僚となり、一方一進会の顧問として日韓の合邦を主唱しその完成に努力せり又ワシントン、ロンドン海軍条約の締結に反対したるを始め、大正十四年には個人主義普選は我が家族制度を破壊するものとして家長選挙法を主張する純正普選運動を惹起して猛運動を行ひたるを始め、国体明徴達成のためのあらゆる運動を行ひ来りしが、特に満洲問題、支那・ロシア問題に対しては、その率ゆる黒龍会、生産党、その他関係団体を動員して不断に果敢なる活動を行ひ来り傍ら養正義塾(中学校)の塾長として青年子弟の教育に任じ来れり。
著書として「露西亜亡国論」、「武道極意」、「皇国史談」、「黒龍澗人歌集」、「天罰論」、「国体本義」、「聖訓謹解」、「支那観」、「支那改造論」、「対外国是樹立の急務」、「杜鵑録」、「国憲破壊の天皇機関説」、「清国動乱の機」、其の他無数にあり、英文雑誌「エーシャン・レビュー」その他多数の雑誌を刊行せり。
以上「大日本生産党十年史」(昭和十六年)より引用 (一部漢字を煩瑣を簡略化し括弧中に説明を加えた)